社長プロフィール
二階堂 裕(Nikaido Yutaka)
1954年(昭和29年)、北海道旭川市生まれ。
RV4ワイルドグース代表取締役。
ジムニー専門誌 「Jimny Super Suzy」発行人。
役職
アールブイフォーワイルドグース株式会社代表取締役社長、エスエスシー出版有限会社代表取締役社長兼発行人、日本ジムニークラブ(JCJ)会長、NPO法人山梨県地震対策四駆隊顧問、NPO法人四駆レスキュー隊副代表理事、盛和塾横浜世話人
趣味
グライダー操縦、キノコ採り、水彩画、林道探索とキャンプ
現在までに所有した四輪駆動車
スズキジムニーLJ10-1型、LJ10-2型、LJ20、SJ10[5台]、SJ10V[2台]、SJ30FK、SJ30FM[2台]、SJ30V、SJ40[2台]、JA51W[2台]、JA71C、JA11C[2台]、JA11V、JA12C、JA22W、JB32W、JB23W[3台]、SJ410W(インドネシア)
トヨタランドクルーザーBJ40V[3台]、BJ41、BJ70[2台]、BJ71V、BJ73、BJ74V、ランクル80
その他の車両三菱ジープJ-3R、J46、日産サファリVR161、Y60、、パジェロV系、L系、クライスラージープCJ7、チェロキー7MX、ランドローバーディスカバリーシリーズⅡ、M151-A1、M151-A2
回想録
少年時代、坂井三郎氏の『大空のサムライ』に感銘し飛行機に憧れる。高校時代には旭川航空協会へ入会してグライダーの操縦を学ぶ。
1972年(昭和48年)に海上自衛隊第25期航空学生として入隊。パイロット生活を送るが、病気のため厚木航空集団司令部勤務となる。この頃、知人が所有するスズキジムニーLJ20に試乗したことで感動。ジムニーに魅せられ、その後SJ10を購入。林道や相模川の河川敷を一人走り運転技術を磨く。
1977年に創刊された4×4マガジンを読み衝撃を受ける。勢いで4×4マガジンに投稿を始め、当時の編集長である石川雄一氏と意気投合。ジムニー特集記事などを任されるようになる。二階堂裕の本名と織田慎太郎のペンネームを使用し執筆。当時の多くの人との出会いがその後の人生に大きな影響を与える。ジムニーの他に、三菱ジープ、ランクルBJ40と次々に四輪駆動車を購入し四駆の世界に魅せられる。1978年大和4×4クラブに入会し事務局長を務める。第5回ジープジャンボリーにて、はじめてオフロードレースへ参戦、入賞する。それ以後、オフロードレースに魅せられて積極的に参戦し、小さなジムニーで大排気量の大型四駆のライバル達を次々に打ち破り、数々のレースで優勝。
当時は四駆仲間と日々オフロードを求めて走り、キャンプをし、野外で食事をし、仲間と酒を酌み交わす愉しい生活。JJ(ジープジャンボリー)へ年に一度行くのが楽しみとなる。この4×4ライフ、四駆ライフといわれるライフスタイルを今も続けている。
1982年鈴木自動車工業(株)(現スズキ(株))に入社、多少英語ができることから輸出サービス部へ配属、世界27国を駆け巡る。並行して同年、ジムニーのワンメイククラブ『日本ジムニークラブ(JCJ)』を関重作氏(初代会長)と設立、初代事務局長を務める。『ジムニーを得意満面に乗りまわす本』を出版(共著、山海堂)しベストセラーとなる。JCJのイベント『ジムニーカーニバル』の目玉として考案した『4×4トライアル競技』が瞬く間に全国のジムニーフリークに普及する。1983年、84年は『キャメルトロフィー選考会』へ参加するも、最終段階で落とされてくやしい思いをする。この時『日本の四駆業界の頂点を目指そう』と決意する。1983年スズキ社内の『スズキジムニー開発プロジェクトチーム』に招聘されるが、それを『エスクード開発プロジェクトチーム』へと変更提案、エスクードの設計思想を考案する。1988年、エスクードが発売されセンセ-ショナルを巻き起こすと、それ以後『エスクードの父』と呼ばれるようになる。
1987年APIOの尾上茂氏と共に、アメリカ・カリフォルニアのUSスズキでサムライを借り、本場バハカリフォルニアのオフロードを走りにいく。『バハ1000』への参戦の調査であった。見事なサボテン、藍色の空と海、美しい風景に魅了される。
1988年からインドネシア駐在となり、滞在中にジャングルを走るオフロード競技へ多数参戦し多くの友人を得る。1988年に、『遊歩大全』(コリン・フレッチャ-著)に啓蒙を受け、今までのオフロード体験をまとめた『オフローディングハンドブック』を執筆(山海堂)。それが自動車の本としては珍しくベストセラーとなり、日本の四駆ブームの一翼を担うことになる。
1989年尾上氏と、自ら開発に携わった『エスクード』でクロスカントリーレイド『オーストラリアンサファリ』へ参戦。クラス優勝し大きな感動を得る。
1993年、JCJメンバーの3家族とオーストラリアをランクルで走り、世界遺産フレーザーアイランドでキャンプをする。子供たちに四駆でしか到達できない、すばらし自然を体験させるためであった。
1994年4月、日本初の四輪駆動車大型専門店『アールブイフォーワイルドグース(株)』を設立し代表取締役社長として神奈川県厚木市で運営を開始する。また、同年より今までの経験を踏まえて日本で初めての『オフロードスクール』を開講する。四輪駆動車の啓蒙と安全の普及を目指し、現在もその活動を継続している。
1998年、JCJのクラブ会報誌であった『スーパースージー』(1982年創刊)をスズキ(株)の要請により市販化し、以後発行人として現在に至る。
1997年、シルバーストーン第3回アジアンラリーにスズキスポーツチーム、田嶋伸雄監督のもとドライバーとして参戦する。翌年はボルネオラリーにも参戦し総合16位。以後、アジアンラリーのオフィシャルを何度か務める。
1999年、APIOの尾上茂氏とエスクードTD62でアジアンラリーへ参戦、総合6位となる。2001年、日本のJCJとオ-ストラリアのスズキ4WDクラブNSWのメンバーと合同で、シドニー北部の山岳地帯を走る。鶯色の森の中では、リングバードが鳴く、美しい風景に魅了される。2004年には片山右京氏の依頼で、アジアンラリーへ参戦するためのアドバイザーとなる。トヨタ・ランドクルーザーのラリー車製作とラリー運営を指導。片山チームとして参戦。片山氏はランドクルーザープラドで総合3位、日本人では最高位となる。2006年チームAPIOの一員としてロシアンラリーへ参戦。
多くの競技規則を立案、文章化する仕事も多く手掛け、JCJの『四駆トライアル』、耐久レース『エンデュランスクロス』や、オンロードとオフロードの複合競技『トライアルクロス』、3台1チームのクロカン競技『トライアングル』などがある。
2012年、JCJメンバーと共に、オーストラリアのフレーザーアイランドに3度目の訪問。キャンプと砂を楽しむ。2017年12月、台湾ジムニークラブのメンバー7人とJCJの合同チームで、富士山周辺を走る。
長年のオフロードレースやクロスカントリーレイドで極限のドライビングを経験し、競技で勝つためにはドライビングテクニックも大切だが、車両の改造が大切であることに気が付く。モトクロスバイクがいいお手本となり、エンジンの馬力を上げることよりも、まずは軽量化、次にはロングストロークサスペンションが大切であることを知る。また、最も大切な事は『思想』であることにも気が付いた。どういう競技運用をして、最終的にどう勝つかという全体的な考えである。そのため、『レースは準備が8割、走るのは残りの2割』という考えを持つ。レースは走る前に勝負はほぼ決まっているといってよい。しかし、これに気付く競技者は今でも僅かである。そして、それは思想の勝負でありハードウエアだけのものではない。
約40年のオフロード走行の体験積み重ねの中で感じたことを集約し、自らがオフロードで必要だと判断した製品を世に送り出している。それは『自らもユーザーであり、これがあったらいいな』と思う姿勢である。製品はすべてを創業者がテストし、これはいいとの思いに至ったものしか販売しない。ワイルドグースが販売するパーツにはすべてに思想があり、且つ機能がある。見た目だけのファッションのための製品は無い。『クロスカントリービークルとして、四輪駆動車の走る能力、機動性能を向上させるためのパーツ』の開発が一貫したポリシーである。
アールブイフォーワイルドグースの創業当時は、ランクルやサファリ、パジェロ等のパーツ販売で会社は大きく売り上げを伸ばした。しかし、東京都からはじまった排ガス規制は、ついに2003年(平成15年)10月に施行されたディーゼルエンジン排ガス規制により、ほとんどの四輪駆動車が走行することも、所有することもできなくなった。日本のクロカン四駆はまさに壊滅状態となり、首都圏、大都市では商圏を失う。このため、牽引用品やウインチ、タイからの輸入車、ATVの販売でなんとか会社経営を続けていた。そうしたことから2008年には、『四輪駆動車専門店』から『ジムニー専門店』としてビジネスを再スタートさせることを決断する。現在はジムニーのパーツ開発と販売に集中して、クロカンのための機動性の高い製品、ジムニーのオフロード性能を高めるためのパーツ、ファッションではなく常に機能のあるパーツの開発を行っている。
2012年からNPO山梨県地震対策四駆隊(JCJ山梨のメンバーが運営)の顧問としての活動をはじめた。2014年からは、静岡県で『NPO法人四駆レスキュー隊』を発足させ副代表理事を務める。現在は、ソフトウエア、ハードウエアの両面から『ジムニーの機動にかかわること』を追求することを仕事としている。昔は単なる遊びであったことが、大雪・地震・災害でジムニーが社会からから脚光を浴びるようになった。機動を追求すること、四駆の能力を高めることが、社会へ貢献できる時代へと変化してきたと考えている。現在は『ジムニーを通じて社会へ貢献すること』が人生の目標である。